2011/09/17

未来がクルマを不幸にする

~夢破れたスズキとVWの包括提携~
●暮れも押し迫った2009年の12月。互いの協議を重ねた末、ようやく締結を果たしたスズキ・VWの包括提携劇だった。
しかしスズキは先の9月12日、同社取締役会を経た上で「VWとの業務提携並びに相互資本関係を解消する」との報道発表を行うこととなった。
またスズキは、資本関係の完全な解消を実現するため、VWが議決権総数ベースで、19.89%を保有するスズキ株の買い取りをも表明している。

●これを受けたVW側では、スズキの現行株価が、提携当時の買い取り価格を3割程下回っていること。また今後の交渉を有利に進めるためもあってか、「スズキの株式は今後も保持し続けたいし、将来の協力関係にも大いに関心がある」と語っている。
思えば、そもそもこの両社は、包括提携にあたって、スズキ側は「VWから環境技術の提供を望んでいた」し、一方でVW側はスズキを通して「アジア圏の新興国市場において、VWグループの影響力拡大」に期待を賭けていた。

~不可能となったメーカー間の棲み分け~
●しかし先頃、スズキが自社の新型モデルに、フィアット製ディーゼルエンジンの搭載を決めたことに対してVWは「VWグループ外からのエンジン調達は提携契約に違反する」と表明。
スズキの原山保人副社長は「VWはスズキへの影響力を拡大しようとしている」と述べ、常に大資本とは異なる道を選び続けてきたスズキにとって、VWとの長すぎるハネムーン期間の段階で、互いの思惑違いが大きく鮮明化してしまった

●一方、VWの本拠である欧州地域では、ダイムラーとルノーの提携拡大や、渦中のVWとポルシェ・ホールディングSEとの経営統合が破談
そしてVWによるプットオプション(設定時点の市場価格に関係なく特定価格で売る権利)並びにコールオプション(設定期日までに市場価格に関係なく特定価格で買う権利)の行使によるポルシェAGの買収話が持ち上がっている
もはや自動車メーカー相互の住み分けができなくなってきた欧州の自動車業界は、景気見通しの不透明感もあって投資顧問会社も巻き込んだビジネスゲームの様相があらわになっている。

~スズキが拘る自主独自路線の原点~
●そんな過酷な世界市場で、自動車メーカーとしての自主独立を求め続けているスズキの原点はどこにあるのか。
それは大工出身の豊田佐吉と並び賞される程の才を持つ鈴木道雄が、地場浜松の大工棟梁へ弟子入りした後に、機(はた)大工に転向して鈴木式織機を開発。明治42(1909)年に、静岡県浜名郡天神町村で「鈴木式織機製作所」を創業したのが皮切りだ。

●当時「サロン織機」と呼ばれていた鈴木式織機製作所の機織機は、豊田自動織機が大資本の紡績会社向けの白生地用機織機を開発・供給していた。
一方で道雄は、家内工場向けの先染用機織機として開発・提供していた。つまり鈴木式織機製作所は、強敵の豊田自動織機とはあえて直接対峙しない独自戦略を選んだのである。

~ナンバーワンではなくオンリーワン~
●その後、鈴木式織機製作所は、大正9(1920)年に鈴木式織機株式会社として資本金50万円で法人に。昭和24(1949)年には東京、大阪、名古屋各証券取引所に株式を上場。
そして世の中が軍事需要に傾倒していく戦前の段階で自動車の研究開発を着手。敗戦後は軍事工場からの転換企業が、文字通り手探りで次なる事業ステージを模索する中、2サイクル30ccのエンジン「アトム号」を試作した。

●これをベースに昭和27(1952)年に「自転車チェーンを直接駆動する構造」「ダブル・スプロケット・ホイルを備える」など、当時人気のホンダ赤カブ号には無かった独自機構を組み込んだ2サイクル36ccの自転車補助エンジン「パワーフリー号」を発表した。

~地場の技術者が育んだ個性と資質~
●昭和29(1954)年には、国産車初のFF車でラック・アンド・ピニオンのステアリングギアを持つ「スズライト」の開発に成功。同車のリリースを契機に今に至る軽自動車王国の礎を築いた。
翌昭和30(1955)年の試作3号でピックアップ、セダン、ライトバンと3種のボディも輩出。ただ販売開始当時は月産3~4台の生産規模しかなく、また1台生産するたびに10万円の赤字が発生したという。

●実績が必ずしも企業収益に直結しなかったこの時期、スズキを支えた企業経営陣は、地味で一生懸命さだけが取り柄の地場工業学校出身者たちであり、それ故に当時から官僚的な高級技術者たちが絶対多数を占めていた日産とは対照的な社風が形成されてきた。

~ひとりの拘り、地域の資質、モノづくりへの想い~
●しかしたとえ独自戦略を信じる経営陣や上司が命令したとしても、現場の技術者にモチベーションがなければ、持ち前の集中力も持続する訳がない。
特に多数のメーカーがひしめく自動車王国の日本において、大資本を追う立場のスズキは、開発コストの圧縮でも「極限」を求められる立場だ

●それでもスズキが世界に対して結果を残してきたのは、常に独自戦略を貫いてきた鈴木道雄の拘りが原点にある。それは浜松という土地が育んだ楽観的で愛すべき前向きの資質といってもいい。
モノ造り企業が根を下ろす地域の独自性。それは日本のどの地方にも存在する。また国というのは、そうした地方の集まりでもある。
そうした個性の違いを大切に想い、個々の自動車メーカーが受け継いできた「拘り」を知ってクルマを選ぶこと。いささか懐古趣味かも知れないのだが、そんな愉しみが、今後もできる限り永く続いて欲しいと思う。

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2010/01/05

クルマ選びは未来を選ぶということ

〜消えゆく名門自動車ブランドたち〜
●ゼネラル・モーターズは、既に昨日となった1月4日を期限に、サターンとポンティアックの在庫一掃セールを行った。
具体的には全米各地のカーディーラーが、7000ドルのインセンティブと引き替えに新車のサターンやポンティアックを購入。こうしてクルマ販売の流通網に乗った各車両は、エンドユーザーへ、いわゆる新古車として販売される仕組みとなる。

●2009年度末時点で、サターンならびにポンティアックの新車在庫は2万台を大きく割り込んでいるが、これにより、全米におけるサターンとポンティアック全車が一掃され、以降、新車としてのサターンとポンティアックは存在しなくなる。

〜自動車王座の分岐点となったクルマ〜
●サターンとポンティアックは初登場時に、双方共まさに一世を風靡した自動車ブランドだった。
サターンは、現役自動車ユーザーの記憶に新しいと思うが、1980〜90年代に日本車を筆頭とする外国車に対して劣勢だった同社が、それらに真っ向勝負を挑むべく造られた。

●その車名はアポロ計画支えた有人月ロケット名を冠したもので、この単一ブランド車のためにゼネラル・モーターズは、テネシー州スプリングヒルに鋳造・ボディプレス・組立・塗装のすべてを網羅した10キロ平方メートルにも及ぶ広大な生産工場を建設した。

〜クルマ造りの国際標準が激変した〜
●本来、ゼネラル・モーターズのクルマ造りは、エンジンやトランスミッション、ボディ等の個々部位や構成パーツを、異なる離れた全米各地域で製造。最終的にすべてを一拠点に集約して組み立てる格好が常であったので、サターンのクルマ造りのスタイルは、米国のみならず世界の自動車業界に驚きを与えた。

●工場内も空調が完備、職場環境としても経営側と労働側の垣根を低めた米国内の自動車工場の体裁として極めて異例のもの。おまけにクルマの販売スタイルも、サターンという単一ブランドのみを販売する店舗網を新構築。このスタイルは日本国内でも踏襲されていた。

〜100年前に記念すべき第一歩を記す〜
●一方、サターンに比べ、ポンティアックの歴史は、それよりも遙かに旧く、時代の流れを1925年にまで遡らなければならない。
1920年代頃は、低価格を売りとしていたT型フォードが、永らく販売2位につけるシボレーを大きくリードしていた時代で、馬車製造を源流に流麗なスタイルを競ったコーチビルダーが「他とは違うクルマを求める層」から熱い期待を受け、持てる技術の粋を競った時代でもあった。

●また当時は、自動車が一般市民に広く受け入れられ、低価格車市場が爆発的に活性化、そんな時節の要請を受け、T型より華やかな後継車としてモデルAが1927年に登場したり、クライスラーからは、メイフラワーの到着港にあやかったプリマスが登場(1928年)した時期でもある。

〜ゼネラル・モーターズを支え続けたブランド〜
●既にゼネラル・モーターズでは、創業者のビリー・デュラントが、同社を二度にわたって追われた直後で、500ドル余りで売り出していたシボレー・ロードスターと約900ドルで販売されていたオールズモビルの間を埋める中間車種として当時の社長、アルフレッド・スローンが命じて造られた。

●ポンティアックという名前は、同車開発の拠点であるミシガン州ポンティアックにあやかったもの、さらに遡るとその名前はネイティブアメリカンの酋長がその祖となる。
以降、ポンティアックは、21世紀を迎えるまで永らく、ゼネラル・モーターズの自動車販売台数で車両ブランドとして上位をつけていたが、その名も2010年を迎えた当月、新車販売のブランドとして消失した。

〜再び迎えた量産自動車の黎明期〜
●考えてみれば1920年代という時代は、そうしたガソリン自動車と共に、スタンレーからは蒸気エンジンを搭載したドーブルという名のクルマもごく普通の一般車として街を疾走していた。
当時、多彩な動力源を持つクルマがあった、いわば「量産自動車の黎明期」にあって、ガソリンエンジンを搭載しない蒸気による動力源を持つクルマが、アメリカの街を走った最後の時代でもあるのだ。

それから90年を経た今日。自動車の代わりとなる特筆すべき公共交通機関も持たず、かつある意味、不自由なほどの広い国土を持つ米国に於いても、同国民はようやく自然と共生して生きていくことを学び始めている。ゼネラル・モーターズとクライスラーが破綻し、米国の交通社会を支えた名車が消えていくことは、この米国で100年間続いた自動車パッケージの終わりを象徴しているようだ。

〜トヨタのハイブリッド戦略に生じた迷い〜
●翻って日本では、2代目プリウスを仮想敵としたインサイトが2月に登場、以降10ヶ月で8万1316台を販売(米国は1万8933台)。5月から販売された3代目プリウスは、2009年11月までで18万6300台を売り上げた。

●そして迎えた2010年。ホンダはシビック・アコードと2種のハイブリッド車を投入予定。日産もフーガハイブリッドの投入が目前だ。
迎えるトヨタは総勢14のハイブリッド車を持つが、さらに3列シートを備えたミニバン系、小型車ベースのハイブリッド車を追加投入を計画している。ただ先行しているトヨタは、2期連続営業損益の赤字を食い止める命題を抱えていることを含め、心の内には十八番のハイブリッド車戦略に迷いが生まれている。

●インフラ面では、日本ユニシスが青森県で行う通信ネットワークを組み合わせた充電インフラシステム。既に2008年にオープンしている越谷市・越谷レイクタウンの電気自動車向けの急速充電施設など、全国でPVHだけでなくEVや電動バイクもカバーした充電施設の整備が進む。

〜体力を蓄えつつあるトヨタのライバルたち〜
●トヨタやホンダを眺めながらも自社の戦略上、一足飛びにハイブリッド車をパスし電気自動車へと走る日産は、2009年暦年で新車販売1300万台と急拡大する中国市場下で、前年比約20%増の70万台と大きく伸び悩むトヨタを尻目に、前年比約28%増の90万5000台の販売見通しを打ち出した。

●本来は2012年の照準として設定していた中国内販売100万の大台も早くも目前、着実に企業体力を蓄積しつつある。そして本年末には、そんな日産から、いよいよ電気自動車リーフが世界市場に向けて投入される計画だ。

〜選択肢はEVか、HVか、PHVか、それとも…〜
●新たな年を迎えて、想いを新たにしなければならないのはその実、毎年のことなのだが、自動車市場では本当に2009年までとは異なる全く新しい時代を迎えようとしている。
公共の交通網のない米国社会では、自動車がなければ、そこで暮らし続けることは国難となるが、日本では都市部を中心にクルマのない生活を始める層も決して珍しくない。

●そうしたなかで自動車の新たなパッケージを求めた時、その動力源にカーユーザーはどれを選択するのか。化石燃料という安く豊富なエネルギーに支えられた文明が限界にきた21世紀初頭。その選択には、個々ユーザーがひいきにする自動車メーカーの命運以上に、今後の100年へと続く自動車社会構築のための1年目という重みが含まれている。

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2008/11/09

GM・クライスラーの再生・反撃のゆくえ

〜世界の自動車社会を牽引してきた100年〜
●米国は、1906年に3万3200台の乗用車を造りフランスを抜いて以降、ほぼ1世紀に迫る80年以上もの間、自動車業界という社交界において常に名士であり続けてきた。
それは良くも悪くも文化面で、ドライブインやモーテル、メガストアなど道路に付帯した商業施設や商業圏を形成・確立させたこと。自動車の走行環境と言う機能面の構築でも、多層構造のパーキングシステムやパーキングメーター、現代社会でごくあたりまえになった信号機のある交差点、複数車線を持つ自動車専用のフリーウェイの存在など、今日、多くの国でデフォルトとなった自動車を取り巻く生活環境造りを担ってきたという歴史の裏打ちがある。

●そんな米国も今から200年前の1800年代初頭においては、広大な国土と可能性を秘めているとされる今日の中国と同様、大西洋を隔てた地の果てにある「途上国」のひとつに過ぎなかった。
その当時、世界の技術革新の中枢は欧州に集中しており、1700年代半ばに蒸気技術を足掛かりに英国圏で始動した産業革命も、その影響力が米国に及ぶまでには、およそ半世紀以上の時間を必要としたのである。

〜約束の地で育まれた自動車産業の礎〜
●当時の米国は、同年代の日本と同様、輸送手段としては陸路よりも河川の方が遙かに優れていた時代で、また大半の工業製品は欧州からの輸入に頼り切っていた。
そんな米国の自動車社会の曙は、日本での山羽式乗合自動車と同じく商用車からスタートを切ったものではあるが、その時期は日本の自動史の黎明期よりも1世紀以上も前の1805年にさかのぼる。

●現代IT産業のメッカであるシリコンバレーと同じく、1800年代当時の米国には、現在のデトロイトとは異なる自動車創造の集積地があった。それはニューイングランド6州のひとつであるマサチューセッツ州で、米国の自動車産業の基礎はここで築かれた。
具体的には1805年に時の大統領であるジョージ・ワシントンの肝入りで、ネイサン・リードが設計した蒸気推進車両が市街を走り、1826年のトーマス・ブランチャードによる8人乗りの乗合自動車の誕生を経て、1840年に英国人技師のホウルラプセイ・ホッジの手になる自走式消防車が米国の街を走り始めている。

●現代の米国産業の礎を築いたガソリン自動車の祖先は、1890年代以降に米国人のチャールズとフランクのデュリエ兄弟によって生み出された後、今日のピッグ3の一角を成すヘンリー・フォードが歴史の表舞台に登場するまで、あとわずか6年ほど。
20世紀を目前にした1890年代は、現代でいうIT革命の黎明期と同じで、米国内で自動車社会の生育が急速に進んだ時期と言えるだろう。

〜フォード、GM、クライスラー、ビッグスリーの登場〜
●そんな米国における自動車技術の変遷は、別の機会にゆずりたいが、1897年、早くも量産ガソリン自動車メーカーとして公式に旗揚げをしていたウィントン・モーター・キャリッジの入社面接でヘンリー・フォードが採用不可の烙印を押され、また同社自慢の最新車両をジェイムズ・ウォード・パッカードが買うなど、現代の米国自動車業界の礎を築いた人物の名前が歴史上に浮上し始めるのもこの頃である。

●最初の雄、フォードが頭角を現したのは、当時のトップメーカーであったオールズモビルを車両の生産台数で抜いた1906年以降のこと。
それは自動車史の金字塔と称えられるモデルT登場の2年以上前のことで、フォードは量産自動車メーカーとしての不動の地位を、この頃からすでに確立していた。

●昨今ことあるごとにM&Aの噂がつきまとうゼネラルモータースことGM。
同社の誕生は、馬車事業で成功したウイリアム・クラポー・デュラントが、1904年にディヴィッド・ダンバー・ビュイックの自動車事業に参画。株による支配権で生産組織を再編成したことがその発端となっている。

〜経営理論を駆使、ベンチャーさながらの初代創業者〜
●1908年にデュラントは、ビュイック社の創業者へ10万ドルを与えることと引き替えに彼を更迭し、同年9月にジェネラル・モータースを創設した。さらに同年末にはオールズモビルを傘下に。翌年の1909年5月にボンティアックの前身とも言えるオークランドを、同7月には通常、株式発行で行う企業買収を異例の440万ドルの現金を用いてキャデラックを手中に収める。

●GMはこうした自動車メーカー統合の流れのなかで、キャデラックやシヴォレーなどのブランド別に企業内に「事業部制」を取り入れ成功を収めた企業として、今でも企業経営の教科書に名を連ねている。
先般、松下のブランドを棄てたパナソニックは、この事業部制を棄てて新たな企業形態の模索を始めたが、現代の多くの企業において事業部制はごくあたりまえの組織形態として利用されている。
ただしGMの企業形態は事業部制とは言っても、企業の核となる「カネ」以外の「モノ」や「ヒト」は、日本企業の事業部制とは違い、完全に分離独立しており、GM自体は日本で言う持ち株会社の形態に近いものだ。

〜プロダクトライフサイクルを活かした企業運営〜
●ちなみにGMが持つ複数ブランド毎のディビジョンカラーは、日本メーカーの「カローラ」や「クラウン」などの車名とは比較にならない強いブランドアイデンティティを持っている。
あくまでも例えではあるが、成功した企業経営者に向けたキャデラック、文化人や弁護士などをターゲットとしたビュイック、フランス人創始者のイメージを受け継ぎ若々しいスポーツ感を押し出したジヴォレーなど、ブランド間の企業内競争を加速させたことで、いつの時代も消費者ニーズを捕らえ続けることに繋がり、またその競争原理が事業部制の欠点とも言える生産効率の不効率を補ってきた。
つまりGMにとっては、これらのブランドアイデンティティーこそが自動車メーカーとしての大きな強みのひとつとなってきたのである。

●一方、常々ことある毎にGMの買収先として取り立たされることが多いクライスラーの始まりは、オールズモビルなど当時米国の自動車黎明期のなかで腕を磨いた自動車技術者であるジョナサン・D・マックスウェルが、板金製品で財を成したベンジャミン・ブリスコーと組んで1904年に創設したマックスウェル・ブリスコーが基点となっている。具体的なクライスラー誕生は以降、企業統合を重ねた後の1920年代になってのことである。

〜純粋なアメリカンスピリットが裏目に〜
●そんなクライスラーは今日、技術・スタイル面で先鋭感を押し出す「クライスラー」、オフロードのエキスパート感を持つ「ジープ」、アグレッシブかつパワー感ある「ダッジ」の3つのブランドを有する。
けれどもGMのようなブランド毎の事業部間競争で成功するこが出来ず、また販売車両の完成度という面で、クライスラーは特に車両の完成検査が甘かったこと、販売後のアフターケア面での不備が尾ひれを生んだこと、加えてダッジが持つアメリカンマッスルカーの純血イメージを、今日の米国に於いて社会情勢と合致させていくことにも失敗した。

●かたや米国自動車メーカーの優等生であったGMも、今では巨額の年金・退職者医療の債務を抱えていて、2008年現在、6兆円を超える債務超過がある。もちろん株主配当も停止されており、金融市場からの資金調達も困難。現段階ではクライスラーとの合併話は、双方の強みを生かせない状態の弱者連合でしかない。

●本来、米国内で自動車を買うとき、1900年代半ばまでの米国車は掛け値なしの信頼性で売れていた。
対して輸入車は、一部の酔狂な好奇心で買うものと考えられていたのだが、この常識は1970年代に入って以降すっかり逆転した。
自動車市場でビッグ3が日本メーカーに敗れた理由については、世界のエコノミストたちによって様々に言われているが、むしろ自動車メーカーの運営を、生産コストの削減やマーケティングなど、経営を徹底的に理論化した人たちによって企業運営がなされてきたこともひとつの要因だろう。
成功した企業の多くは卓越した発案者や技術者と、優れた経営センスを持つ企業家によって生み出されている。これは企業成功のためのまさにクルマの両輪であり、いずれか片方だけでは決して成功はおぼつかない。

〜次世代自動車産業の成功を掴むのは米国か?〜
●どの企業も事業規模が拡大するにつれ、経営理論を駆使した組織運営を行うようになるが、それは同時に企業アイデンティティの喪失を伴うことがある。それは今日、日本でのソニー、ホンダに現れている通りである。
ホンダに関しては1990年代の2代目レジェンド開発期に、同社内で世代を超えた数多くの開発者から意見を聞く機会があり、その際に筆者はホンダ創業期の精神を受け継ぐ旧世代と、新しいホンダを目指す新世代というふたつのジェネレーションギャップが存在していることを認識したことがある。

●もちろんホンダやソニーがいつまでも過去の成功にしがみついている必要はなく、企業としていずれは新しい地平を目指すべきなのだろう。また自動車マーケットも、かつて趣味性やステイタスを大切にしていた消費世代が縮小、もはや自動車は純粋な耐久消費財としての役割を果たすことが本流になっているということなのかも知れない。

●しかし一方で、同社が自動車業界で大きな存在になっていくなか、自動車に機能以上のものを求める消費層により、例えば日本では、21世紀を迎え、輸入車販売の拡大が起こっている。
自動車が純粋機能に徹するモノと、機能以上のものを持つモノに二分化されるなか、米国は、GMやクライスラーは何を目指し、世界の消費者層からどんな新しいニーズを引き出すのか。20世紀の100年間、世界を牽引してきた米国自動車メーカーたちにはその解答を生み出す知見と歴史の蓄積があるはずだ。
1970年代にモノ造りで日本に敗れた後、経済分野で新たな競争市場を打ち立て未曾有の成功と破綻を経験した米国。同国が自動車市場で新たな勝利を目指すことになった際、日本はそれにどう立ち向かうのか。EU圏を中心に米国破綻のシナリオが描かれるなか、米国自動車業界の反撃の行方をシッカリ見守りたい気持ちである。

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2008/11/02

エネルギー制御を巡るしたたかな企業戦略

〜三洋電機が選んだ選択と集中〜
●11月を迎える直前になって、パナソニックが三洋電機を合併するという噂が電機業界を駆け巡った。
 その話題の主である三洋電機は、この数年来、業績低迷の要因となっていた事業を躊躇なく切り離し、本来得意にしていた業務機器部門と共に、太陽電池や二次電池事業に集中してきている。

〜蓄電池で世界一位のシェアを獲得〜
●このため同領域で同社は、日本国内での競争を抜け出し、国際的に極めて高い技術力を持つに至っている。
 特にリチウムイオン電池では、もはや国内業界大手の「パナソニックを押さえる」という次元ではなく、文字通り世界一のシェアを握っているのである。

〜太陽電池で敗北したパナソニック〜
●つまり三洋電機としては、例え電機業界の雄「パナソニック」が相手と言えども、もはや他社に買収されなければならない理由や弱みはあまり持ち合わせていない。
 一方、パナソニックは同獲得劇の実現で得られるであろう効果は計り知れない。
というのは、太陽電池開発競争で、既にパナソニックは事実上敗北を喫していて、国際的なR&D競争から清く撤退しているからである。
このためパナソニックにとっては、三洋電機の卓越した技術は、国際環境において極めて短期間で、国際競争力を持つための切り札となる。

〜両者に含まれる合従連衡の弊害〜
●ただし合従連衡の形次第では、お互いにマイナス要因が発生しないとも限らないところもある。
というのは未だ双方の企業共に総合電機メーカーとして家電事業や半導体事業で、激しく競合している領域が確実に存在しているからである。
 このことから完全合併しても、単純に売上が2倍にはならない。
けれども近年のこうした巨大企業の合併・合従ではそうした経済効果だけが、決して焦点ではなかったりする。

〜経済環境だけではない理由を探る〜
●例えば企業体力として近年、俄然注目を集めている領域には、個々企業の持つ「特許数」や「特許内容」も大きなポイントになるからだ。
日本の特許庁行政年次報告による2005年の実績では、パナソニックが申請特許数で15600件余。他方、三洋電機の出願件数は3400件余だ。
 その内容は、今回話題となっているリチウムイオン電池関連の特許において、三洋電機、パナソニック、ソニーが三強体制となっている。

〜次世代エネルギー制御の核を握る〜
●一方自動車分野で、三洋電機は今春以降、常に台風の目であり続けている。
 今年5月末には来る2015年までのハイブリッド車用のリチウムイオン電池事業に約800億円の投資計画を発表。独フォルクスワーゲンと電池システムの共同開発に取り組む。
 加えて現在、自動車の実用バッテリーとして主流となっているニッケル水素電池に比べ、体積当たりの出力が2倍を超えるリチウムイオン電池開発にも精力的に取り組んでいる。

〜選択と集中が呼び込んだ成功〜
●三洋電機の自動車メーカーとの協業体制は、他にも数挙のいとまがなく、すでに米国フォードのHEVエスケープ・ハイブリッドにバッテリーシステムの供給を開始済。
また本田技術研究所ともHEV用高性能二次電池の共同開発を進め、欧州地域で永年、燃料電池自動車用のニッケル水素電池の開発提供をしてきたメルセデス・ベンツへは、Aクラス搭載への二次電池を供給。HEV用電池の共同開発でもパートナーシップを鋭意強化中である。

〜もはや三洋のライバルは世界になし〜
●先の800億円の事業投資発表の際に、三洋電機取締役副社長・執行役員部品事業担当の本間充氏は、「2020年に市場の40%のシェアを目指している。石油や天然ガスといった天然資源は、必ず枯渇する。当社はニカド電池、ニッケル水素電池、リチウム電池と44年間積み重ねてきた二次電池の開発実績があり、HEV用リチウムイオン電池の生産技術力面ではどの会社もライバルではない」と自信が溢れていた。

〜したたかさが企業の強さを呼び込む〜
●従ってこのニュースが、本当に実現するのであれば、合併による事業効率追求や、互いにないモノを出し合って手強いライバルに対抗しようという、消極的なスタンスでは決してあり得ない。
 もしも可能性があるのなら、そこには戦略的価値を見いだしてのことであろう。そういう意味では、目下マスメディアおいて話題の中心になっているパナソニックよりも、むしろ三洋電機の方にしたたかな計算があってのことだと筆者は思えてならない。

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2006/08/06

孤高の経営理論でクルマの未来を紡ぐスズキ

国際自動車競争に生まれつつある新潮流
●米国誌ビジネスウイークによると、IT企業の新王者と目されているグーグル(24位)を尻目に日本のトヨタが約279億ドル(約3兆2400億円)のブランド価値を獲得。華やかな国際ブランド番付で、7位の地位を獲得した。
一方、国内自動車メーカーのなかにあって、軽自動車造りにこだわり続け、地道な企業経営を積み重ねたスズキは、今年4〜6月期の営業益で前年比18%増の340億円、軽自動車シェア3割超をマーク。売上高でも19.8%増の7638億円と、2003年来の好成績を記録している。

軽自動車造りだけでないスズキの実力
●ところがスズキが過去30年間、一度も首位を明け渡したことがない国内軽自動車市場は飽和状態だから、大幅増が望めるレベルではない。
つまりスズキが好成績をあげた背景は、欧米・中国・インドなど、海外での飛躍的な販売増によるものなのである。同社はエスクードとスイフトに加え、ニューカマーSX4の世界戦略車を配し、国際ブランドとして確固たる地位を掴みつつあるのだ。
そんなスズキは、かつてのバブル景気のなかでも「身の丈にあった企業経営」を信条に、決して高級車路線には走らず、役員達は皆勧んで自社のコンパクトカーに乗っていた。

国際的な輸出企業として戦前から君臨
●そんなスズキの歴史は1909年、創業者の鈴木道雄氏が「鈴木式織機製作所」を浜松に創業したことに始まる。1920年に鈴木式織機として法人設立を果たした同社は、戦前の早い段階で東南アジアへ織機を輸出する国際メーカーでもあった。
自動車に関する研究は1936年頃からで、戦後に補助エンジン付き自転車「パワーフリー号」が市場進出の切っ掛けとなった。その後の1954年に「スズキ自動車工業」に社名を改称。翌年、軽四輪車「スズライト」で自動車生産を開始。1979年に発表した「アルト」の爆発的ヒットで、名実ともに日本を代表する軽自動車ブランドの地位を確立した。現在は二輪車やマリン事業の他、住宅部門も抱え、売上構成比は四輪車78.2%、二輪車19%、その他2.6%となっている。

巨大企業も羨むスズキの活力と社風
●これまでスズキが、二輪レースで構築したブランドイメージは北米・欧州を中心にアジア・発展途上国において絶大だ。
ハンガリーでは、フィアットと共同体制で新型SUVを開発。インドでは、ディーゼルエンジン開発の技術供与をアダムオペルやフィアットから導入。ASEAN各国では、世界戦略車APVを生産し中近東・中南米・南アフリカへ輸出するなど、生産拠点も世界各国でおよそ50にも及んでいる。
1981年には、スズキのクルマ造りに魅せられたGMがラブコール。「クジラとイワシの提携」と揶揄され「いずれは飲み込まれてしまう」と囁かれた資本提携劇は自動車業界に大きな話題を提供したが、その結果は大方の予想を裏切るものとなった。

オイルピーク時代に勝ち残る資質とは
●というのは1986年、カナダでGMとの合弁会社を介して年間10万台規模の現地工場を設立。さらには南米に積極進出を図るなど、まさに巨大メーカーと対等の関係に終始したのだ。
1990年には創立70周年を迎え「スズキ」に改称した同社。そもそも創業以来赤字を出したことのない同社の経営姿勢は明快だ。無駄を嫌う社是は首尾一貫している。筆者の知るところ、自動車製造に関わるコスト管理体制で、スズキに並ぶ会社はこの地球上に存在しない。コストダウンにかける意気込みは、事務方である企業広報のオフィスにも及ぶから、まさにそれは世界一と言っていい。
思えば昨年、ケニア出身のワンガリ・マータイさんから、日本語には「もったいない」という言葉があることを改めて教えられた日本。
いままでと同じペースでエネルギーを使い続ければ、いずれ厳しい現実に直面する日がくる。しかしこれまでの消費神話・成長神話を方向転換すれば、未来の姿は大きく変わる。それはオイルピークを迎えた時代に相応しいクルマ選び、ライフスタイル選びに繋がっていくのだろう。

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2005/08/01

世界市場でフォードの期待するマツダらしさとは

●2005年の世界販売台数見通しを816万台に上方修正。さらに米ビジネス・ウイーク誌と英インターブランドの「世界の企業ブランド価値番付」で日本企業唯一のトップ10入りを果したトヨタ。
そんな同社を筆頭に、日産、ホンダの国内自動車メーカー上位3社は揃って海外生産で100万台を突破。過去最高水準を記録している。一方でマツダ以下、三菱、富士重など国内下位メーカーの業績は決して芳しくなく、このことからいよいよ日本メーカー間でも「優勝劣敗の構図」が明確になり出したという業界人も出てきている。

●ただ低調の下位メーカーでも、地域別に見ればそれなりの成績を残している。
例えばマツダは、中国での上期販売実績で前年同期比53.6%増の7万357台を記録。これは半期の販売台数としては最高値で、当地の主力車種「マツダ6(日本名アテンザ)」を筆頭に中国販売は好調だ。

●さてそんなマツダは1920年創業の「東洋コルク工業」が母体で1984年に「東洋工業」からマツダとなっている。1931年からは三輪トラックの生産を開始。1958年には小型トラック「ロンバー」で四輪市場へ挑戦。翌々年の1960年には「R360」で乗用車市場に進出した。1961年にはドイツNSU社とバンケル社の双方からロータリーエンジンの基本技術を導入。メルセデスなど大手競合がロータリーエンジンの開発を次々と断念するなか、1967年に同エンジン搭載のスポーツカー「コスモスポーツ」を実用化。その高い技術力を実証した。

●ただマツダはその歴史において経済的に順風満帆とはいえず、オイルショックのあおりを受けた1979年からはフォードから資本を受け入れる体制に陥り、1981年には既存販売網にフォード車を販売する「オートラマ」を追加。1989年にはシトロエンを販売する「ユーノス」、フィアットを扱う「オートザム」の5チャンネル体制を構築するに至っている。

●しかも5チャンネル体制の構築は不幸な事に日本のバブル崩壊とぶつかり、1995年にはフォードからの出資比率を25%から33.4%に大きく引き上げる要因になる。この流れから1996年には初の外国籍社長ヘンリー・ウォレス氏が就任。さらに次いで就任したジェームス・ミラー社長と続いた。しかしふたりはむしろ労使協調を重視した温情経営をおこなっていたようだ。

●ところが2000年にマツダは1500億円もの赤字を計上。当時38歳のマーク・フィールズ社長は「変革か死か」を旗頭に、広島周辺の部品メーカーを優遇しない世界調達体制を構築。さらに本社工場の一部閉鎖。2001年には2000人余りの優遇希望退職を募るなど、この冬の時代は2002年に4代目外国籍社長ルイス・ブース氏が就任するまで続いた。

●そして迎えた2003年。フォード本体の人事異動で井巻久一氏が16年振りの日本人社長となったが、今やフォードとマツダの連携は10年前より緻密になってる。
例えばエンジン開発では、2000cc4気筒の開発をフォード全域から引き受け、逆に6気筒はフォードから供給を受け、また2003年からは欧州フォード・スペイン工場でデミオの生産も開始。かねてから懸案だったフォードとの車台連携はアクセラ(欧州名Mazda3)で実現した。

●これまでフォードの援助下で打てる手はすべて打った状態のマツダ。だからこそ今後はグループ内において、フォードが期待する役割をどんな形で担うのかが問われている。そしてそれは攻めべき市場で売れるクルマ造りを行えるかどうかにある。つまり未来に向けてマツダは、グループ全域のボディ共通化を進めつつ、同時に東アジア発のプレミアムメーカーであり続けることを求められている。

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2005/07/28

スバル経営陣の選択肢で六連星の輝きが決まる

●先に経営再建中のカネボウから次世代電池事業を買い取ったばかりの富士重工業だが、この程、瞬間的な電流出力を電気2重層キャパシタと同等レベルに高めつつ、体積当たりのエネルギー密度が従来比の2倍〜3倍となるハイブリッド車向けキャパシタ技術を発表した。

●同社はここ20年来の経済変動のなかで、バブル絶頂期の1989年に営業赤字を計上し、一方でバブル崩壊以降は黒字化。
さらに2000年以降、過去最高の業績を維持するという一般の市場経済の常識では考え難い業績推移を今だに刻み続けている不思議な自動車メーカーである。

●裏を返すと同社にとって経済変動はまったく傷害ではなく、むしろ景気に頼らない熱狂的なファンの動向が生命線ということになる。
だからこそ今後の成長は、そうした熱狂的なスバリスト以外のファンをどれだけ誘引できるかに懸かっている。

●そんな富士重工業は、お馴染みのロビンブランドの発電用原動機の他、旅客機体製作、自衛隊向けの支援戦闘機をも手掛ける複合企業で、そのルーツは、戦闘機「隼」を生んだ「中島飛行機」が原点だ。

●中島飛行機は敗戦後、平和産業に転身するべく「富士産業」に改称するも、1950年の財閥指定で結局12社に分割されており、企業復興の道程は他の自動車メーカーに比べ大きなハンディキャップを背負うこととなった。

●それでも小型モーターやミシン、トラクターなど造れるものなら何でも手掛けるというなりふり構わぬ企業活動で生き残りを図った末、1953年に旧中島グループ5社が合併を前提に富士重工業を設立。1955年に出資5社を吸収合併するかたちで現在の富士重工業が誕生している。

●そして1958年の政府の国民車構想を受け、同社が発表した「スバル360」は、月間1万台以上のセールスを記録。これを契機に自動車メーカーとしての基盤を固め、1965年にFF小型乗用車「スバル1000」を発売。1968年には業容拡大を目指し日産自動車と業務・資本提携。1972年には、初の4WD車「スバルレオーネ4WDバン」を発売した。

●以降、1980年代の終盤からは米国での現地生産工場の立ち上げ、新型レガシィの開発、エンジン工場の移転など相次いで大型投資を敢行。これらによる過大な資本投下が裏目に出て赤字を計上する結果となってしまう。

●しかし不幸中の幸いというべきだと思うが、日本経済が絶頂を極める環境下で設備投資の絞り込み、購買システムを全面改訂を行うなど、図らずも基礎体力の強化を行う結果となった。それにより年を追う毎に厳しくなる燃料規制や環境規制の本格施行を前に、欧米メーカーとコンタクトをつなぐ好機にも恵まれている。

●そして1999年、遂に米国GMと資本提携を締結。さらに同じGMグループの一員としてスズキとも資本・業務締結を果たしている。このGMとの関係はフォレスターをGMインドの販売網からシボレーブランドで発売。サーブ9-2xの共同開発に着手するなど、今日着々と強化されつつある好材料のひとつとなっている。

●さらに2003年には、新中期経営計画「FDR-1」フジ・ダイナミック・リボリューション1に添って、社内カンパニー制の導入と不採算事業からの撤退を断行。
具体的には鉄道車両事業、バス車体事業の新車生産を終了し、翌2004年にはハウス事業を営業譲渡したことで、現在は航空機産業・産業機器・自動車生産・開発の三部門に経営資源を集中している。

●ただ潤沢な資本も巨大な販売網も持っている訳ではない同社だけに、持ち前の優れた技術や人材をどの方面に集中投入するかで、企業の浮沈そのものが決まってしまう可能性が大きい。
2003年にフルチエンジを果たしたレガシィが、初代からの累計で100万台を超えるなか、新たなハイブリッド技術を既存のファン獲得に使うのか、またはマニア層ではない一般ユーザーの獲得に振り向けるのかが今問われている。

●思えばスバルマークの原点は、六連星(むつらぼし)と呼ばれるプレアデス星団の名前がルーツで、マーク内の小さい星が分割された会社群と云われ、大きい星が統合後の富士重工業を示すと云われている。
かつて企業の総合力が削がれた厳しい戦後をくぐり抜け、会社統合時にいつまでも輝き続ける星のようでありたいと願った星が、今後も輝き続けるかどうかはトップの経営判断に握られている。

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2005/07/27

日産ブランドの名門再興劇と積み残された課題

●低迷し続けていた日産自動車復活の起爆剤となった「日産リバイバルプラン」、2002年4月から始まった「日産180」計画、そして2004年4月に発表された「日産バリューアッププラン」と現在、順調に業績改善を達成しつつある同社は、今後、ディーラー網再編や海外事業の展開策など、名門自動車メーカーとしての本格復活を証明できるかどうかという総決算の時期を迎えようとしている。

●そのなかで同社は目下、積極的に特許ビジネス確立の途を模索している。具体的には米国のコンサルタント会社と契約関係を結び、工業・技術分野における自社特許の販売やライセンス供与の事業化を本格推進していく意向という。
ちなみに米国ではこうした特許ビジネスに伴う市場取引が活発に展開されており、宇宙開発に至るまで多彩な技術資産を持つ日産自動車だけにそこに新たな収益源確保を見い出したようだ。

●一方肝心の自動車事業体制は、現在過渡期にある国内2系列、およそ3100拠点の販売店舗網。そして九州・追浜・栃木など4県に点在する5つの自動車工場に加え、海外17カ国でも21の生産拠点を有している。自動車以外でも船舶やフォークリフトの生産・販売を手掛けているものの、実際には総売り上げの99.5%を自動車事業で稼ぎ出すという生粋のカーメーカーであることに変わりはない。

●そんな同社は、1914年から脱兎(ダット)号ことDAT CARを生産していた「快進社」をそのルーツに持ち、実に100年に迫る歴史を誇っている。また日産自動車という現社名の由来から辿ったとしても「日本産業」と「戸畑鋳物」の共同出資で、1933年に設立された「自動車製造」にまでそのルーツを遡ることが可能だ。

●また現在、本業に据える自動車の大量生産に関わる源流を探し当ててみると、その自動車製造が設立翌年の改称で日産自動車となった後に、出資元の戸畑鋳物自動車部が、大阪の「ダット自動車製造」から生産工場を買収。さらに1935年に新設した横浜工場の稼働を契機に、日本おいて自動車の大量生産体制を確立させている。

●その後1952年に英国・オースチンと技術提携。1958年には乗用車の対米輸出を開始。さらに1966年にはスカイラインなど稀代の名車を配していた「プリンス自工」を合併・吸収するなど、日産自動車というブランドは、常に国内産業の重要な場面で、飽くなき高度化を目指していく日本経済の重要な牽引役を演じてきた。

●しかしそんな高度成長期におけるトヨタ自動車との自動車販売競争の激化により、1991年度から赤字決算を連続して計上するようになる。1999年度は連結で6843億円・単独でも7900億円と、日本企業として過去最悪の赤字を出したことを契機に自主再建の道を断念。ルノーの出資を受け入れ、カルロス・ゴーン氏に日産自動車の経営全権を委ねることとなった。

●ゴーン氏は早速、就任早々日産自動車グループの14%にあたる2万100人の関連社員を削減した他、生産5工場閉鎖や購買費の圧縮を柱とした先の日産リバイバルプランを断行。自身を含む全役員の退陣を賭けて2000年度の黒字化を確約した。
これが社内の中堅・若手社員に受け入れられ、早くも就任翌年度に連結3310億円。単独でも1874億円という黒字化を達成している。

●また日産180計画やバューアッププランなど事業刷新の象徴として、来る2010年までに日産自動車の世界本社と日本事業関連など企業の主要機能を、同社経営陣が永らくこだわり続けていた東銀座の地から、神奈川県横浜市の「みなとみらい21地区」に移転させることも決定している。

●海外戦略ではインフィニティの世界展開に加えて、中国・東風汽車公司との提携、広州での新工場操業、現地への乗用車開発センターの設置などの事業強化策を通じて、約1兆円の総売上・約1000億円の営業利益を目指している。加えて、日産モトール・イベリカ社への4億ユーロの投資を皮切りに欧州へも積極進出を果たしている。

●ただそもそも日産180計画は「新車販売台数100万台増」「連結営業利益率8%」「負債ゼロ」の3つの目標を掲げ、傘下の部品メーカーに15%のコストダウンを通達。日産バリューアッププランでは、2007年度末までに世界市場で年販420万台に加え、高い営業利益率を維持するため投下資本利益率20%以上の達成を目指しているもの。

●つまりそれはいずれも部分的な開発投資や経費を削減し、最も利益率の高い製品やサービスに事業資本の絞り込みを行っていくことを意味している。
事実、研究開発部門における一時的な資金圧縮の影響下で、日産自動車の同領域における人材不足やポテンシャル低下は未だ解消されていない。

●つまり企業をよりスリムな事業体制にすることで、資金流動の激しい株式市場において株主に高い配当を還元したこと。あるいは極めて短期の間に株主利益を押し上げたという実績をメディアが評価。それが永らくデフレであえぎ続けていた財界の賞賛を浴びたということに過ぎない。

●残念ながら大規模な製品開発には大きな資本投下と永い時間が必要であり、そのなかで社員の夢が育まれ、モチベーションが長期に亘って高められこと。また消費者にとってより安価で有益な製品造りを行うということは、短期的な株価上昇とは別の長い目で見た場合、株主利益の確保との厳しい鬩ぎ合いが生まれてくる可能性がある。

●丁度、海の向こうの英国では、MGローバーの破綻で同国最後の自動車メーカーの灯が消えるという郷愁的なメディア報道が行われた。けれども現代、我々が社会生活上で様々な恩恵に浴している資本家中心の経済理論というのは、ある意味、グローバリゼーションや規制緩和を後押しする弱肉強食の欧米世界での理論でもある。
そのなかで国内名門企業である日産自動車がこの先どこ向かうのか。その行方に日本の新しい未来社会の姿が投影されているように思えてならない。

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2005/07/21

スバルがホンダに真っ向勝負を挑むモータースポーツジャンルとは

●中国での「森林人(フォレスター)」新車発表会場における、中国紙「新京報」記者の取材から始まったとみられる中国の同社合弁生産計画について、新京報に「上汽汽車が濃厚」と書かれた翌日になってこれを否定するという、今回いささかチクハグな報道対応をした富士重工業ことスバル。
そんな富士重工業は、米国のモータースポーツシーンである意味レースが本業とも思えるホンダと熾烈な首位争いを展開。がっぷり四つ相撲を繰り広げているレースカテゴリーが存在している。

●それは日本の大手二輪車メーカーが参入し、「利幅が大きく貴重な収入源」とヤマハが語るほど盛況な米国ATV(4輪バギー)市場でのおハナシである。
このATV、見た目は二輪のオフロードマシンと非常に酷似しており、その違いはタイヤが4個ついていることくらい。その風貌から二輪車メーカーの参入はなるほど頷ける。しかしそのなかでスバルとは「ナゼ」と考える向きもあるかと思う。

●しかし富士重工業はそもそも自動車だけを造って食べている会社ではない。
現在、富士重工業には大きく分けて4つのディビジョンがあり、まずそのひとつが「スバルオートモーティブビジネス」というお馴染みの自動車事業だ。
2番目は中島飛行機から続く航空機造りのノウハウで、小型飛行機やヘリコプターを造ったり、ジャンボジェットの翼などを製造している「航空宇宙カンパニー」。3番目は最も新しい事業の「エコテクノロジーカンパニー」で、ここでは風力発電システムや塵芥収集車を造っている。

●そしてもうひとつ、今回最後の4番目に挙げるのが「Robin(ロビン)」ブランドの発電器や、米国「Polaris(ポラリス)社」向けに高性能ATVやスノーモービルのエンジンを開発・供給する「産業機器カンパニー」である。
埼玉県北本市に拠点を構える、この産業機器カンパニーの富士重工業における部門売上げ高比率は約4%余り。見た目の数字は大きくないが汎用エンジンロビンのブランドシェアは世界4位と立派なもの。WRCではボディ側面に誇らしげにロビンマークが掲げられ、ピットワークでもロビンの発電器が活用されている。

●さて、今回話題に挙げたポラリス用のATV供給エンジンは、ホンダやヤマハなど世界のレースシーンで1、2位を争うライバルメーカーに立ち向かっているだけに、競合メーカーと並ぶ最新鋭のエンジン技術を採用したものになっている。
ちなみに当地のATVレースは、日本のモトクロス人気はまったく足元にも及ばないほどの盛り上がりで、そのなかで2003年には、富士重工業が供給したパワーユニットを搭載するポラリスのフラッグシップ「Predator(プレデター)」が、堂々のSportsQuad of Yearに選ばれている。

●どうも日本にいると、ステレオタイプにしか報じないTVや新聞報道のせいで企業動向の一部しか判らないことが多い。このため業界下位メーカーの動向も掴みにくいのであるが、実のところこの富士重工業を筆頭に、それぞれ下位に甘んじているメーカーにも面白い活動領域や見えない特徴があるものなのである。
さてそのATV市場に関しては、国内でのニュースにも若干動きが出ている。それは現地市場の6〜7割が日本車であるという現実(当然ポラリスは含まれていないはず)。さらにホンダは熊本製作所で造っていたATV「TRX450R」の生産を、北米法人HAM社から熊本製作所に移管するなど、伸び続ける需要に生産体制の見直しに入っているというニュースだ。

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2005/07/17

新車を1台開発したらその費用は一体幾らになる?

●ホンダが本年限りでNSXの生産打ち切りを決定する一方で、フォードとのコラボで自動車メーカーとしての体力を取り戻したマツダは、来る8月25日から新型ロードスターを発売する。実際にはすでにWebサイト上で予約受付中とのことで、その反響は上々という。
またNSXに関しては、ホンダが自ら既存のNSXオーナーにリサーチを取るなど、次期モデルの開発を迷い続けていた節があるが、こちらも一旦生産中止となるものの次世代スポーツカーは鋭意開発を続けていくとしている。

●そうした超エキゾチックスポーツカーのNSXとは、比較対象にはならない手軽さがウリ。それがライトウエイトスポーツのロードスターだ。まさにそのシンプルコンセプトで世界の自動車シーンに革命を巻き起こしたクルマでもある。
そのストイックなまでの割り切りが立派で眩しかったマツダ製の2座席スポーツは、この3度目のフルモデルチャンジで、どうも少々立派になりすぎてしまったように思う。
昨今は時代の流れなのか、来る秋に発売されるシビックもそうなのだが、どのクルマも妙に大型化していく傾向が目立つ。まぁそれもコスト圧縮という至上命令のなか構成コンポーネンツの流用が欠かせない御時世ゆえ、やはり時代の流れということなのだろう。

●さてそうしたスポーツカーばかりではなく、高級車やリッターカーなど車種を問わずに、仮にとある対象メーカーのラインナップ上には存在しないようなクルマを1車種だけ新規開発すると一体幾ら掛かるだろう。
正直いって今やそんなゼータクは望むべくもないご時世ではあるが、その場合の予算はおよそ1000億円は必要ではないかといわれている。
ちなみにこの1000億円のうち、昨今の車両開発で最も資金を浪費するのはボディ骨格の開発だ。この部分ををまったく新しく造るということであれば、簡単な仕様変更でもすぐさま100億円単位で予算が吹き飛んでいくことを覚悟しなければならない。

●さらに新車をそれらしく仕立てていくためには、クルマの心臓部であるエンジン開発(最近はマストな要件ではなくなりつつある)や、サスペンション設計、内装部材の調達など、諸々で3万点以上におよぶ構成パーツが必要だ。つまりたとえ1000億円の資金を調達できたとしてもその資金繰りは決して安泰ではないのだ。
それゆえ自動車メーカー各社では、新車開発の費用の抑え込みにありとあらゆる手を尽くすこととなる。

●そんな中でも近頃、最も使い回しの対象になり易いのはエンジンやサスペンションなどの構成パーツである。
実のところちよっと前なら、スポーツカーや高級車に搭載するエンジンユニットは、そのクルマの大きなセールスポイントだったはず。しかし今や例えプレミアムカーであったとしても、専用エンジンを新規開発するケースがあまり見られなくなっている。
逆にエンジンユニットは基本構造をできる限り維持して多くの車両に使い回す。さらに同一のエンジンブロックをベースに、永らく改良を重ねながら使い続けることすらごく普通のことである。

●そういえば前に、ホシノインパルの星野一義さんに伝統のL型エンジンのことを聞いたことがあるが、その回答はけんもほろろ「そんなもん最新ユニットがイイに決まってる」と一蹴されてしまったことがある。より高性能なものを求めて時代の最先端を走るエンジニアやレーザーにとって、旧エンジンを改良して使い続けるというのは相当辛いことらしい。
世の中には「古い革袋に新しい酒」などという言葉もあるようだが、確かに予算さえ許すなら、新車開発とて新しいエンジンユニットを搭載するの方が愉しいに決まっている。

●さらにコスト削減策を突き詰めていくとその究極策はプラットフォームこと車台の共有化に行き着く。
実際、車台の共有化は自動車メーカー各社で徹底的に検討・実行されている領域である。このため相当幅広い車種ラインナップを誇るビッグメーカーでも、車台は数種類だけというケースも少なくない。
こうして浮いた費用でどれだけ多品種少量生産体制を活かしていくのか。
それこそ生き馬の目を抜く現代社会で、自動車メーカーが利益を確保していくための高等テクニックだ。もはや車台は、開発当初から幅広く使い回し先を考え、設計されるのが普通になった。場合によっては自社グループの枠を超え、他の競合メーカーと共有される。そんなケースもでてきている。

●それでも新車開発が恐ろしく賭博性が高い事実は拭いがたい。想えば筆者が子供の頃には、街の駄菓子屋に「箱を破いてみないと中味が判らない」類の菓子があったが、自動車開発は極端なハナシそんな傾向が強い。
そんななかで生産ライン上、屋根の低いクルマしか生産できなかった当時のホンダが、苦肉の策でリリースした初代オデッセイが突如大ブレイクしたりする。
そういう意味で自動車メーカーの方々というのは、総じて山師的な部分があるかも知れない。それが巨大資本を持つ企業の優劣を決する訳で、そういう見方をすると新車登場の背景をウオッチするのはなかなか愉しいことなのである。

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