2011/11/04

シボレー生誕100年目に想うこと

〜Louis-Joseph Chevroletという人物〜
●2011年11月3日で、生誕100年を迎えたシボレー。しかし日本では同ブランドの源流について、あまり広く知られていないように思う。
シボレーのブランドマーク誕生の諸説は、既稿の別テーマをご覧頂くとして、この「Chevrolet」というブランドそのものを丹念に辿っていくと、1878年12月25日、クリスマスの日にスイス・ベルンジュラ地方で生まれた「ルイ・ジョセフ・シボレー(Louis-Joseph Chevrolet)」という人物に行き当たる。

●ルイ・ジョセフ・シボレーことルイは、欧州で多感な青年期の大半を過ごし、馬車のメカニズムを通じて機械工学を学んだ。そしてアメリカ人自転車レーサーのヴァンダービルトに誘われるままに19世紀末にフランスを離れ、カナダ(ケベック州モントリオール)を経て、米国に渡ってきた移民のひとりだった。
そんなルイが、大西洋を渡ってやっきた当時の米国を国家という切り口で見ると、まだ安定することなど念頭に無い青年期、20世紀を目前に迎えたばかり。

〜新興勢力シボレーモーターカーの創設〜
●当時は現代のIT産業の隆盛に似て、自動車産業が最先端の新興ビジネスであり、ルイは持ち前の腕力と卓越したドライビングテクニックで、新星ビュイックを駆る気鋭のレーシングドライバーとして、米国内ではかなり名の売れた存在になっていった。
そこでルイは獲得した名声を足掛かりに、元々モノ作りに関心が高かった自身の三兄弟のガストンとアーサー。それに加えて、フランス人自動車技師のエティエンヌ・プランシュというメンツを集結。自動車作りの事業化を模索し始めていた。

●一方で同じ頃、自分が立ち上げたGMから経営者としての地位を追われ事実上、失業状態となっていたウイリアム・クラポ・ビリー・デュラントもこの計画へ参画。
投資パートナーのウィリアムリトルと、デュラントの義理の息子であるエドウィンR.キャンベルがメンバーが加わり、自動車メーカーとしての「シボレーモーターカー」を創設した。
GM創業者という経営上の強い味方を得たシボレーは、1911年にT型6気筒ヘッドを持つ4904ccのシボレー・クラシック・シッスクを開発。これが同ブランド初の量産車である。

〜GM創業者デュラントの果たした役割〜
●このクラシック・シッスクというクルマは、当時のアメリカ人がシボレーという名前から連想したイメージとは異なる無骨なクルマだった。
それでも1914年末までに9000台もの車両販売を達成。後に新型6気筒を搭載したモデルを。さらに4気筒エンジン搭載のH型へと続き、トップメーカーとして先行していたフォードのライバルとして販売競争を演じ続けるまでになった。

●やがて時代が巡り1920年代に入ると、自動車販売の「信用売り」に難色を示すヘンリー・フォードを尻目に、デュラントが分割払いの車両販売を開始。これをテコに1928年には、米国内9工場だけでなくカナダ工場も含めて100万台を大きく超える生産台数を記録。シボレーの地位を不動のものとした。

●しかし肝心のブランド名を提供したルイ・シボレーは、事業を立ち上げて間もない頃からクルマ作りでデュラントと対立を深め、ある日、デュラントがルイに、「安っぽい紙巻き煙草を吸う習慣をそろそろ変えてはどうか」と進言した些細なことから仲違いが深刻化。1915年に保有株をすべてをシボレーモーターカーに売却。これを契機に自動車ビジネスの一線から退くこととなった。

〜遺した功績だけが人生の価値ではない〜
●ただ元来ルイは、著名なレーシングドライバーとして米国内で高い名声を保ち続けていたことから、1916年以降もレースシーンでは華々しい活躍とリザルトを残しており、また新会社のフロンテモーターズコーポレーションの設立にも尽力した。が1929年の株式市場の暴落で保有蓄財の殆どを散財。終に1941年の6月6日、ミシガン州に於いてほぼ無一文のまま他界した。

●21世紀を迎えた今日。GMには欠かせないビックネームとなったシボレーは、スポーツカー、フルサイズピックアップトラック、セダン、そしてクーペといったスタイル別のモデルラインナップの充実にとどまらず、次世代EVに於いてもブランド価値を強く輝かせている。
そしてルイ・ジョセフ・シボレーは、インディアナ州の聖ヨセフ墓地に埋葬されており、彼の胸像はインディアナポリスモータースピードウェイ博物館の入り口に立ち、その偉功を今に伝えている。

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2007/09/09

買う価値を伝える巧みさ〜アルファロメオ

〜アルファロメオの始まり〜
アルファロメオの誕生は、1900年代初頭(1910年)。当時、欧州の自動車産業界で一定の成功を収めていたフランスのダラック社が、イタリアで自社製品のノックダウン生産を行うためイタリアーナ・ダラック社を設立したことに起因する。

●しかしこの頃の自動車業界は、今で言うところのベンチャー産業であることから、市場環境などの外的要因に大変弱く、当時、欧州経済の低迷で同社の業績が悪化し始めたのを契機に、ミラノ農業銀行の融資を受けた投資家グループがイタリアーナ・ダラック社を買収。社名をロンバルディア自動車製造会社( A.L.F.A. )と改め、再スタートを切ったこと。これがそもそものアルファ社の始まりである。

〜高額車造りに徹するスタンス〜
●この頃のアルファ社は、グランプリレースやミッレ・ミリアへの参戦費用を何とか捻出するために、「一般向けの自動車も製造販売しますよ」という、今日の自動車ビジネスとは遙かに掛け離れたスタンスで、今の自動車業界に於けるフェラーリのような生き方を逸早く実践していた。
ゆえに製造されるクルマたちは、いずれもレース活動で培われた技術をフル投入されたいわば「スーパーカー」であって、大変高価な車両だった。

〜欧州自動車業界では上席扱い〜
●その頃のアルファ社は、史上初の世界選手権王座を獲得するなど、「自動車レースはアルファのためのにある」と言って良いほどの華々しい活躍を残している。
今は、トリノ市生まれでかつてのライバルだったフイアットの傘下に甘んじているが、レース活動を「自動車産業の社交界」として捉える欧州的な見方で、アルファロメオは、今日、世界の高級車ブランドとして栄華を極めるメルセデスよりも断然格上である。フロントマスクに付くエンブレムの起源も中世の動乱期にまで時代を遡る。

〜十字軍が築いた歴史を背負う〜
●ちなみにアルファのオリジナルエンブレムは、4つの要素がひとつに重なってできている。
まず左側は、イスラエルの城壁へ真っ先に十字架を打ち立てた十字軍に因んだミラノ市章の赤十字。

●さらに右側はビスコンティ家の初代当主が十字軍時代に殺したイスラム兵士の盾に付いていた蛇のマークがビスコンティ家の紋章として後世に受け継がれたとも、偉大なる者の化身である龍が飲み込もうとしている異教徒(サラセン人)あるとも言われている。
が、いずれにしてもそれらの紋章は、他国の富を略奪した勝者の歴史を物語るものだ。

●1925年には世界チャンピオンになった証として周囲を月桂冠で取り巻き、ALFA−ROMEOとMILANOの文字の間には、イタリアのサボイア王家の紋章である「縄の結び目模様」が組み合わされた。
ただその後残念なことに1972年にはMILANOの文字が消滅。1982年以降には、栄光の月桂冠も廃止されるなど、そのでデザインは次第に小変更が加えられ現在に至っている。

〜コンセプトを暖め続けることの大切さ〜
●そんなアルファの歴史のなかで特筆すべきことのひとつは、創業以降ほぼ80年もの間、絶えることなくスパイダー(オープンカー)を作り続けていることだ。
現行モデルは、プラットフォームの共有化が史上命題となっている自動車メーカーの常もあって、大型化したクーペモデルの「ブレラ」をベースにピニンファリーナとアルファロメオのデザインセンターが協業して仕上げたものだ。

●一方で、スパイターを開発する上で原点となるコンセプトは、1954年のジュリエッタ・スパイターから生まれ、映画「卒業」で登場した1966年リリースの105系スパイダーを育んだところにルーツがある。

〜時代にあえて迎合しないこと〜
●この105系スパイダーは、各メカニカル部の基本構成を大きく変化させずになんと延べ34年もの間、延々と造り続けられた。これは通常なら「新しいことを是としなければならい」スポーツカーというセグメントから考えると、到底あり得ない超ロングセラー車であることを意味している。

●その基本サイズは4200mmの全長。1630mmの全幅。1290mmの全高。トレッド寸法・前1325mm後1275mm。フロントサスはダブルウイッシュボーン+コイルの独立懸架。リアはアクスル・ハウジングを左右1本づつのトレーニングアームでデフと吊り下げて支える3リンク方式。ステアリング機構はウォーム&ローラー式と、現代の技術水準からするとまさしくクラシックカーそのもの。まるで評価の対象外になってしまう仕様に間違いないのだが、その実、「走り」は今でも結構イケる。

●1967年の1750ベルリーナ登場を契機に生まれたのが1750スパイダー・ベローチェで、118bhpの高出力を誇り、エクステリア的にはサイドマーカー・ランプがホイールアーチ後からフェンダー先端に移動。筆記体のエンブレムの廃止などの数々の小変更が加えられた。
1968年には、GT1300と同じエンジンユニットを搭載した1290ccモデルが加えられ、結局同シリーズ1は1600モデルが5325台。1750モデルが8722台。1300モデルは7237台が生産されている。

〜シンプルさが走りの明快さを生む〜
●登場3年目を迎えたスパイダーは、テールデザインの末端をスッバリ切り落としたコーダ・トロンカ・ボディに変貌。
搭載エンジンも1750と1300の2タイプに絞り込まれた。デザインはグリルの横格子が5本から3本に減少。バンパーの大型化。ワイパーの並行作動化。埋め込み式ドアノブとヘッドライトカバー(ただし1750のみ)追加。内装ではコンソールボックスが追加されるなど、相変わらずシンプルな構造だが小さな改良点は多方面に亘っていた。

●1971年には1750モデルが2000ccユニットタイブにバトンタッチ。しかし実のところこのジュリエッタSS発展型のダブルチョークウェーバー搭載モデル(69年まで)がシリーズ中、最も走行性能が高い。
1972年には1600ccユニット搭載の1600ジュニアが再登場したが、内外装は1300モデルと共通。結局、2000モデルは38379台が生産され1600は4848台が造られている。

●いずれもエンジンブロックはアルミ合金鋳物で、1954年当時から脈々とダブルオーバーヘッドを使っているというのは、当時としては十二分に革新的なもの。当初1300ccからスタートしたエンジンブロック内部は、4気筒の鉄製ライナーが一体になっているタイプである。

〜新しさがウケるとは限らない〜
●さらにスパイターは1982年に3度目のマイナーチェンジを受けた。
基本スタイリングに大きな変更はなかったが、フロントエアダムにリアスポイラーを装備。さらに前後の大型樹脂製大型バンパーが組み込まれ、伝統のフロントグリルはバンパーへの組み込み型に変わった。

●ヘッドランプは前進してライトカバーは廃止。サイド・マーカー・ランプが再びホイールアーチ後に移動。通称「アエロディナミコ」と呼ばれ、素人に媚びを売るような樹脂製エアロパーツが付いているなど、アチコチの改良点は大多数のエンスージアストには嫌われたが、クルマとしてのデキは決して悪くない。ただしこの頃のモデルはインポーターの都合もあって平行輸入車が主流であった。

●エンジンは2000と1600の2種。欧州向けの2000はキャブ仕様の128bhp。
対して米国向けはインジェクションの115bhpで、日本に入ってきたのは殆どが米国仕様ばかり。外観的違いは欧州型が鉄ホイール。日本専用車は星形アルミが付く。
このシリーズ3は2000が31808台。1600が5400台を販売。ちなみにUS仕様のインジェクションモデルをキャブに換装はできない。

●また1986年には大沢商会が大量のクワドリフォリオ・ヴェルテを輸入した。
これは従来型の高性能バージョンという位置付けとは離れ、実のところ既存車の豪華版という感じが強く、最終型と同じアルミホイールにリッチな皮内装。追加されたサイドスカートで迫力は増した。ただ樹脂製のハードトップは実用的かつメーターフードが大きく拡大。中央にはベンチレーターとアウトレットが追加されていた。ステアリングホイールのグリップが太いのが特徴の同仕様は2951台の登録だ。

●1990年にはビニンファリーナで修正を加えステアリングにバワーアシストが付いた「シリーズ4」が登場している。欧州向けにはキャブ仕様の1600ccモデルもあり、米国向けはボッシュ・モトロニックML4,1インジェクションにキャタライザー付き。生産台数は2000で18456台。1600は2951台だ。

〜買う価値を伝えることの巧みさを学ぶ〜
●現行ひとつ前のモデルで、駆動形式が大きく変わったFFスパイダーは、155シリーズと同じくフィアット車との共通コンポーネンツ「Tipoシャーシ」を流用。それでも4輪ストラットにサブフレームを追加するなどアルファの技術者は踏ん張りを見せ、追加されたマルチリンク・リア・サスペンションはトー調整を積極的に行うことで低中速域でのニュートラルステアを実現。さらにファイナルオーバステアの特性も狙うというアルファらしい発想が盛り込まれている。

●現行車もフロント・リア・シートの刺繍・メーターパネル・ステアリング・ペダルに至るまで、伝統のエンブレムを配置するなど、徹底した雰囲気チューンが施されている。
けれども「街中のとり回しには難渋」したり、「掃除をしていたらネジが1本足りないことを発見」する、「雨天走行後にドアを開けたら雨粒がポツリと落ちてくる」などイタ車特有のノリは未だに生きている。
しかしドイツ車のような凡庸なクルマに飽きた層には良い刺激になるし、アルファロメオはクルマに乗ることが、決して実用目的だけでないことを教えてくれる。

●消費者がモノを買う時、そこに求められるユーザーの欲求の満たし方には様々なスタイルがある。それは「機能的な価値」か「情緒的な価値」か。
「クルマに乗ることと、アルファに乗ることは違う」と主張しているように思える同社の姿勢。そこにはクルマを使うことで得られる価値が何なのか。それが造り手側の主張として製品に込められているのだろう。

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2005/07/28

自動車帝国GMの源流(キャディラック編)

●2005年もJ.D.パワーASIAが発表した「米国自動車サービス満足度調査」で、高級イメージで押しまくるLexusなどの外国勢を蹴散らし、Lincolnに次ぐ2位を固めた「Cadillac」。そんなキャディラックは、GMが自他共に認め、自動車の世界を代表する最高級ブランドのひとつである。

●ライバルと目されるブランドは欧州の老舗ブランドの他、同じ米国では双璧を成すフォードの「Lincoln」があるが、実はこのリンカーンは先のビュイックと似た生い立ちを持っている。それは重税に喘いでいたリンカーン社をヘンリー・フォードが1922年に買収。これによりフォードグループの一員になった経緯があるからだ。

●一方キャディラックは、1920年代に馬車事業として高い成功を収めた「ビリー・デュラント」と「J.ダラス・ドート」のコンビが次世代を狙って創設した、新興自動車メーカーのジェネラル・モータースが、1909年に同社の最高級車として据えた栄えあるブランド名である。

●さてそんなキャディラックというクルマは、そもそも1900年代初頭に栄華を極めた「オールズ・モーター・ワークス」に長年、エンジン制作者として参加していた「ヘンリー・リーランド」なる人物が創り出した自動車ブランドがルーツとなっている。

●このヘンリー・リーランドがキャディラックを売り出したのは1902年のこと。
彼のクルマは先鋭的なイメージと華のあるスタイリングがウリで、初代モデルは1903年に造られた「キャディラック・モデルA」というクルマだ。同車は当時の自動車ファンに絶大な人気を博していた。

●しかしこのクルマ、何故か同時期のフォード車とは瓜ふたつだった。
ただそれもそのハズで、元電気技師でもあり、気鋭の自動車技術者でもあったヘンリー・フォードは、自己のブランド車を造る一方で、ヘンリー・リーランドのブランド、キャディラックのお抱え設計者としても精力的に活動していたからである。

●つまり今では米国自動車ブランドの双璧を成すGM社のキャディラックの開発に、ライバルメーカーの創業者であるヘンリー・フォードが関わっていた訳で、アメリカのクルマ創世期はそれだけギョーカイが狭かったコトがよく判る。
ちなみにキャディラックは1914年、他車に先駆けていち早くセルフスターターを採用。1916年にはキャディラックV8を駆る「アーウィン・キャノンボール・ベイカー」という人物が大陸横断を7日半で実現するなど、現在のプレステージ然としたキャラクターとは若干食い違いがある。

●これは当時のキャディラックが、今のようなオジサマ車御用達ブランドではなかったからで、今や米国車の定番ユニットとして知られるV8エンジンもキャデラックが1920年代に流行の先鞭をつけたもので、1950年代にテールフィンブームのきっかけを作ったのも同じくキャデラックだった。

●常に米国自動車業界に新しい流行を生み出す当時のキャディラックには、先駆者としての若さと輝きがあった。だからこそ株式買収で次々と他の競合を飲み込んでいったジェネラル・モータースも、キャディラック社だけは唯一440万ドルのキャッシュで買い取るという別格的な扱いをしている。
それだけ同ブランドには米国を代表する伝統と栄冠があり、そしていつまでも色褪せない華のあるクルマとして扱われているのである。

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2005/07/27

自動車帝国GMの源流(ビュイック編)

●GMの「キャディラック」や「シボレー」は単なる車名ではなく、ブランド戦略下で独自の経営責任を負い、一方で総本社のGMは経営の策定と管理を担う。つまりそれぞれのブランドはディビジョンとして自主経営を求められる立場にある。そもそもGMはトヨタのような一枚岩ではなく多数のメーカーが統合することで帝国を築いている。それだけにブランド個性は強く、米国ではそのルーツに共感する熱烈なファンが存在している。

●そんな環境下で「ビュイック」は、GMグループ中最古のブランドとしてよく知られており、元来はスコットランド生まれの「ディビッド・ダンパー・ビュイック」が興したカーメーカーがルーツである。
このディビッド・ダンパー・ビュイックなる人物は、1980年代終盤から1900年初頭にかけて配管業を生業としていた実業家で、すでに自動車メーカーを興す前の段階でエナメル塗膜の技術開発で大金を手にしていた。

●しかし自動車好きのビュイックは蓄えた財産を元手に1902年、ミシガン州で「ビュイック・マニファクチャリング・カンパニー」を創設。翌1903年には、バルブをシリンダーヘッド内に納めるという当時としては、画期的なエンジンを搭載した新型車の生産を開始している。

●まさに米国自動車産業創生期といえるこの時代。ビュイックの活動をつぶさに見ていた人物がひとり存在していた。それがビュイックと同州人であり、GMの創始者でもあるビリー・デュラントその人である。

●ビュイックの先進性に惚れ込んだデュラントは、なんとかこの企業を手にしたいと考えるようになり、翌年の1904年、ビュイックに対して果敢な株式介入を開始したのである。そしてこれによってデュラントは、ビュイック・マニファクチャリング・カンパニーの経営権を完全掌握してしまう。

●これに対して純粋なエンジニアタイプであったビュイックは、デュラントの社内工作もあってか1908年、デュラントから10万ドルを受け取るかわりに自身が創設したビュイック社から離脱することとなってしまった。

●離脱した後のビュイックは、持ち前の独自技術を背景にキャブレター製造を手掛けたり、ディビッド・ダンパー・ビュイック・コーポレイションという新会社を組織したりと精力的に活動したものの、結局、ロードスターモデルを1台造っただけで廃業。さらに晩年になってからはデトロイト商業学校の教職に就くなど、文字通り波乱の人生を送った末に1929年に他界している。

●一方ビュイックの自動車造りの思想は、彼がビュイック社を去った後も受け継がれ、次々と生み出された新型車は現在のGM躍進の原動力になった。特にGM成長の初期には同社を代表する看板ブランドとして絶大な役割を果たし、いまでも次々と新技術が投入される先進性と、流麗なボディスタイリングを売り物にGMグループではキャデラックに次ぐ上級ブランドへと育っている。

●現在のブランドイメージは、リッチなラグジュアリークーペやセダンの代名詞となっており、保守的なカーユーザー層をターゲットに販売実績を積み上げている。ラインナップ自体はシリーズ90、パークアベニュー、スカイホーク、リビエラ、ロードマスターなど豊富。トヨタで言えば主流セグメントはプログレあたりをイメージさせるものとなっている。

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2005/07/19

コルベットも冠するシボレーのボウタイマークにまつわる伝説

●GfK Automotive社が調査した米国自動車オーナーの「次に購入したい新車」男女別ランキングで、男性が指名した首位のクルマは「Porsche 911」、女性の指名首位は「Pontiac G6 Convertible」と、男性がクルマに対して絶対性能の高さやデザインを好む一方で、女性は堅実に車両価格や実用性を重視する傾向が表れたという。
どうやら世の東西を問わず、速く美しいリアルスポーツカーを求める男のわがままは尽きることはないようだ。

●そんな我らが日本の誇るリアルスポーツカーといえば、前々回で話題に挙げたNSX。または旧いところではトヨタ2000GTあたりかとも思うが、海の向こうの米国では1台のスポーツカーブランドが半世紀を超える歴史のなかで時を刻み今も走り続けている。
いやそれだけではなく、去る6月にはルマン24時間でクラス優勝。さらに続く7月には、コネチカット州レイクビル・ライムロックパークで建国記念日に行われたALMSことAmerican Le Mans Series(アメリカン・ルマン・シリーズ)第4戦で、ワン・トゥ・フィニッシュを飾るほどの元気の良さを見せている

●そのクルマはシボレーコルベットである。なんと同車は最新モデルのC6になってから、世の中の流れとは逆行するように車体のコンパクト化を果しており、自慢のOHVのスモールブロックはいささかアメリカンフィーリングが薄らいだような気もするのだが、その分、世界に数多有るリアルスポーツカーに対抗しうる絶対性能を備えるに至っている。
まさに米国人にとってシボレーは誰もが知るスポーツブランドであり、その名はヨーロッパ的な音の響きを持つことから人気が高い。またご当地の米国では、熱狂的なシボレー系エンスージアストをシボレーに冠されているマークから連想して「ボウタイピープル」と呼んでいる。

●それほど「シボレー」と「ボウタイ」は、永きに亘って切っても切れない密接な関係がある。逆にいうと20世紀初頭のカーブランドのなかで、ボウタイマークは押しも押されぬスポーツ心を表す象徴だったのである。
しかし一方でこのボウタイマーク誕生の経緯については、絶対的な裏付けがないまま今日でも複数の説が唱えられている。

●シボレーの生みの親であるルイ・ジョセフ・シボレーはフランス人で、彼は母国フランスで樽からワインを抽出するためのポンプを発明したり、自身が設計した自転車でレースに参加するなどなかなかの活動家だった。
そんな彼がさらなる活躍の場を求め高度成長真っ直中のアメリカにやってきて、米国の自動車レースの世界でナンバーワンレーサーの称号を獲るまでには、それほど時間は掛からなかったようだ。

●そんな彼に目を付けたのが、現在の巨大自動車メーカーGMの育ての親であり、後に意外な運命を辿ることとなるビリー・デュラントだった。デュラントはシボレーの名声を武器に新ブランド「シボレー」の創設したのである。
そこで生まれたのがシンボルのボウタイマークだ。そのマークについて1961年に発行されたシボレー・ストーリー50周年号からなる説のひとつでは、デュラントが1908年、フランスで滞在したホテルの壁紙の一部を「素晴らしいネームプレートになる」と、その一片を持ち帰ったいうものがある。

●ふたつ目の説は1912年、アメリカ南部バージニアにある温泉ホテルのスイートルームで、ふと眼にした地方新聞の広告に載っていたボウタイマークを、デュラントが気に入り「これはシボレーに相応しい紋章になると思うよ」と、妻のW.C.デュラン夫人に語ったという説。
さらに「ある夜、スープとフライドチキンなどが並ぶデュラント家の夕げのテーブル上で、デュラント自身がスケッチしたと思う」と、娘マージョリー・デュラントが1929年に「私の父」で記した説もある。

●1986年に刊行されたシボレー・ストーリー75周年記念誌では、こうしたボウタイマーク誕生の秘話について、ビリー・デュラント自身がパリのホテルの話と妻の新聞説の双方を認めたとされている。これを執筆したシボレー・メディアプロダクションによると「マークの出生がどんな形であれ、ボウタイは今日のシボレーのトレードマークであることに変わりない」と述べたという。

●ちなみに1900年当時の南部地方紙には「サザン・コンプレスド石炭会社」が掲載したボウタイ広告が現実に存在していて、そこにはCから始まる「コーレッツ」という9つの文字列のなかで中央のEを大きく強調、何げにフランス風に読ませる工夫など、ある意味シボレーのボウタイマークと良く似ている。

●このコーレッツというのは、小さいとか小型であるという意味の造語だそうで、新聞広告には円の中に「たくさんの熱を作り出す小さな石炭」というスローガンが描かれている。
サザン・コンプレスド石炭会社のマークとの関連性という意味では、デュラントが創生期に造った「リトル・モーター自動車会社」のマークが丸いネームプレートの紋章で、なかに「little」が書き込まれ、内側に「赤く熱する」背景が描かれている。

●ちなみにサザンコンプレスド石炭会社がボウタイロゴをこのようにデザインした意図は、一般大衆がこの造語を発音し易くするためだったといわれている。こうしたことを考えると、デュラントはこの発想をヒントに「シェヴ・ロ・レイ」と言う読み方を発明したのかもしれない。

●双方の紋章は背景が暗く、白の境界線と白字を使用しており、違いはコーレットの方が流れる様な傾体文字で描かれているのに対して、シボレーの方はローマ調文字で中央の3文字分が若干角張っている。
果たしてデュラントは将来の参考として、サザンコンプレスド石炭会社のマークを新聞から切り取って保存していたのだろうか。今となってはそれを完全に解明する術はないようだ。

●その後、シボレーのボウタイマークはブルーにシルバー枠を基調とした立体タイプや、スポーツイメージを強く打ち出した赤いシルエット。ライトトラック用に採用するゴールド基調など多種多様になっている。
しかしどれも高いデザイン性と強い訴求力で、シボレーのイメージを高めていることは確かなようだ。

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