2014/11/05

中国で世界を制する自動車メーカーを探せ

〜世界販売車の4台に1台を保有する国〜

●今から刻を遡ること10年。2004年時における中国自動車市場は、まだ500万台規模(当時の世界生産6,395万台)に過ぎなかった。
しかし中国政府は、その5年後にあたる2009年度、1,600㏄以下の乗用車購入税を半減させ(10%から5%へ)、また中国内陸部での農用車を乗貨両用車両へ置き換える等の乗用車取得奨励策を実施。
これを期に、リーマンショックで低迷する米国市場を出し抜いて(2010年に1,851万台)、以降、世界で売れた新車のうち4台に1台を保有する国となった。

●以来、中国政府は、外資の力を利用してきた過去の産業育成手法からの離脱を模索し始め、生産から販売、アフター市場に至る全域で、自前主義へと軸足を移そうとしている。
こうした政府方針に応え、地場資本も精力的な活動を見せ、冷蔵庫の製造会社として生まれた後(1986年設立)、二輪車製造を経て1997年に四輪自動車事業に参入した「吉利汽車」のように、遂には外資のVolvoを飲み込む例(買収年度2010年)も現れている。

〜中国自動車市場の主導権を握る戦い〜

●一方で、独国資本のVWことフォルクス・ワーゲンは、市場開放の初期段階から中国参入を果たし(1984年、上海汽車と提携し市場参入)、2008年には、当時のVWが持っていた量産用車台(PQ34型)をベースに、上海VWの「朗逸」ことLavida、一汽VWの「宝来」ことBora(現在は新型車台PQ35型に移行)など、車両1台あたり10万元(2014年11月5日現在で187万円)以下のプライスラインで売れ筋のクルマを揃え100万台超の販売総数をマーク。中国国内シェア・ナンバーワンの座を守り続けている。

●対する中国国内の自動車メーカー各社は、地方政府が保有する中小メーカー等も含め、未だ100社以上がひしめいていて、その実力ならびに実績共に、未だ玉石混淆の状態にある。
また多くの消費層が年々拡大する所得増加に伴い、より高品質に、より高性能に、より高価格なクルマを求めていることから、電池メーカーとして生まれた比亜迪(BYD・2003年設立)の「F3」が2010年に一旦、乗用車販売台数第1位(26万台)になったものの、以降、販売上位へのランクインは果たせてはいず、純粋な中国資本が国内マーケットの主導権を奪うまでには至っていない。

〜日本メーカー各社が低迷するなか、マツダに勝機アリ〜

●ただ中国市場に外資が参入する際は、当地企業との50%以内の出資比率を背景とした合弁でしか中国進出が果たせず、また不透明な政府の認可を取得しなければならないことから、技術的優位に立つ外資企業であっても、中国自動車市場での覇権拡大は容易なことではない。

●そうしたなかで、PSA出資を果たした東風汽車(2014年4月に14%の出資完了)を筆頭に、第一汽車や一汽轎車などの現地企業と組みするなどして、外資の一角を占めてきた日系メーカー各社も、努力むなしく永らく苦戦が続いてきた。しかしこの2014年に入ってから、気丈にもマツダのみが販売台数を伸ばし続けてきている。

〜ふたつの製造・ディーラー網から中国ユーザーへ〜

●具体的には直近(2014年11月4日発表)のマツダこと「馬自達」の2014年10月の中国内における自動車販売台数は、トヨタ、日産、ホンダがおしなべて販売目標値を達成できない可能性が見え始めているなか、2013年同期比較10.5%増の1万9788台に達している。

●現在マツダは、中国国内で第一汽車との合弁である「一汽マツダ」。長安汽車との合弁の「長安マツダ」というふたつの製造・ディーラー網を持っているが、この10月の自動車販売台数の内訳は、一汽マツダの販売台数が、前年同期比19%減の8859台。長安マツダが、前年同期比56.8%の大幅増加を示し1万929台となった。

〜3世代のアテンザ併売でも売れる特殊性〜

●他の日本車メーカー各社が中国で低迷している原因は「新車導入ペースが遅いこと」「販売価格の設定に違和感がある」と当地では云われている。つまるところ中国消費市場の変化していくスピードに追いつけていないのである。
一方で、中国当地のマツダ・アテンザこと「馬」は、初代「馬6」、2代目「馬6ルイイー」、そして最新の3代目「馬6アテンザ」と、3世代の新車が微妙な価格差で今も併売されている。

●現在、中国マツダは「一汽マツダ」と「長安マツダ」という2つの販売チャンネル下で、総計435の販売店があり、うち235店舗が一汽マツダ、残り200店舗が長安マツダとなっている。
個別チャンネル網での取扱車種は、一汽マツダが、馬6ことアテンザ(新旧)、馬8ことMPV、馬5ことプレマシーとCX-9、MX-5こと輸入車種のロードスター(輸入完成車に対する関税課税率は25%、MX-5の場合、ここに増値税や流通コストが加わる)。
長安マツダでは馬2ことデミオ、馬3ことアクセラ(新旧)とCX-5となっている。
なかでも3世代を併売する馬6(アテンザ)と云う車名は、もはや自動車メーカーとしての馬自達(マツダ)ブランドよりも知名度が高い程の人気で、昨年2013年度も、馬6だけで9万4000台を売り上げた。

〜クルマ造りのブランド価値はどこにある〜

●当のマツダではクルマ造りに対して、「マツダのクルマには競合車がなく、自社独自の価値を世界に提供する(小飼雅道社長)」と語っており、10%の熱心なコアファンを獲得することを通じて、世界シェア2%を取ることが目標であると云う。
その志は明確で「値引きしなければならないような退屈なクルマはつくらない、今後も生き残っていくために、高くとも欲しいと思われる車を作り、結果、世界で走る車のなかで2%のシェアを死守していく(小飼雅道社長)」戦略だ。

●もはや自動車製造の世界においても、家電製品やIT製品などと同じく、車両の構成部品は、高度な「すりあわせ技術」を要しないモジュール単位の組み合わせが増えており、今や自動車メーカーにとっても「商品の構成力」が最も重要なブランド価値の生命線となってきた。

●このため、もはや商品を設計・構成していく際の実現力が低ければ、独自のブランド価値が作り出せない時代となった。
そもそも中国市場は、世界でも特に突出した経済規模であるゆえに、かつての米国市場と同じく、地場の自動車メーカー各社は国内での地位確保に腐心する傾向が強い。従って海外進出を目指す指向性が低いのだ。
このため今後、中国国内市場が成熟に向かうにつれ、新興国らしい特殊性はますます薄れるようになり、米国市場同様、世界各国の自動車メーカーがひしめき競合する場となっていくことから、魅力的な商品の選択肢は、幾らでも登場してくるだろう。

〜世界シェア2%というシンプルかつ厳しい命題〜

●つまり10%の熱心なコアファンを獲得することを通じて、世界シェア2%を取る…これが中国においても自動車ファンに伝わらないとマツダには明日がない。そうした企業の強い意志を独自のクルマ作りに込め、ブランドというカタチにして熱狂的なマツダファンへ届けなければならない。
そこにはボディ設計に対する想いがあり、骨格構造に対するこだわりがあり、結果として形作られるスタイルにもあり、ボディカラーにも、手に触れる質感にも、さらにはプロモーション手法からセールスに至るまでのすべてに、一貫性が求められる。

●突き詰めるとクルマというものは単なる移動の道具ではあるのだが、それでいながらも、乗る人の感性に訴えるものだけに、作り手のメッセージが伝わる集合知の結実したものでなければならない。
マツダの場合、世界で2%を目指すと云うその想いがブランドとなって、ようやくユーザーに見えるようになってきたのだろう。

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2011/11/04

シボレー生誕100年目に想うこと

〜Louis-Joseph Chevroletという人物〜
●2011年11月3日で、生誕100年を迎えたシボレー。しかし日本では同ブランドの源流について、あまり広く知られていないように思う。
シボレーのブランドマーク誕生の諸説は、既稿の別テーマをご覧頂くとして、この「Chevrolet」というブランドそのものを丹念に辿っていくと、1878年12月25日、クリスマスの日にスイス・ベルンジュラ地方で生まれた「ルイ・ジョセフ・シボレー(Louis-Joseph Chevrolet)」という人物に行き当たる。

●ルイ・ジョセフ・シボレーことルイは、欧州で多感な青年期の大半を過ごし、馬車のメカニズムを通じて機械工学を学んだ。そしてアメリカ人自転車レーサーのヴァンダービルトに誘われるままに19世紀末にフランスを離れ、カナダ(ケベック州モントリオール)を経て、米国に渡ってきた移民のひとりだった。
そんなルイが、大西洋を渡ってやっきた当時の米国を国家という切り口で見ると、まだ安定することなど念頭に無い青年期、20世紀を目前に迎えたばかり。

〜新興勢力シボレーモーターカーの創設〜
●当時は現代のIT産業の隆盛に似て、自動車産業が最先端の新興ビジネスであり、ルイは持ち前の腕力と卓越したドライビングテクニックで、新星ビュイックを駆る気鋭のレーシングドライバーとして、米国内ではかなり名の売れた存在になっていった。
そこでルイは獲得した名声を足掛かりに、元々モノ作りに関心が高かった自身の三兄弟のガストンとアーサー。それに加えて、フランス人自動車技師のエティエンヌ・プランシュというメンツを集結。自動車作りの事業化を模索し始めていた。

●一方で同じ頃、自分が立ち上げたGMから経営者としての地位を追われ事実上、失業状態となっていたウイリアム・クラポ・ビリー・デュラントもこの計画へ参画。
投資パートナーのウィリアムリトルと、デュラントの義理の息子であるエドウィンR.キャンベルがメンバーが加わり、自動車メーカーとしての「シボレーモーターカー」を創設した。
GM創業者という経営上の強い味方を得たシボレーは、1911年にT型6気筒ヘッドを持つ4904ccのシボレー・クラシック・シッスクを開発。これが同ブランド初の量産車である。

〜GM創業者デュラントの果たした役割〜
●このクラシック・シッスクというクルマは、当時のアメリカ人がシボレーという名前から連想したイメージとは異なる無骨なクルマだった。
それでも1914年末までに9000台もの車両販売を達成。後に新型6気筒を搭載したモデルを。さらに4気筒エンジン搭載のH型へと続き、トップメーカーとして先行していたフォードのライバルとして販売競争を演じ続けるまでになった。

●やがて時代が巡り1920年代に入ると、自動車販売の「信用売り」に難色を示すヘンリー・フォードを尻目に、デュラントが分割払いの車両販売を開始。これをテコに1928年には、米国内9工場だけでなくカナダ工場も含めて100万台を大きく超える生産台数を記録。シボレーの地位を不動のものとした。

●しかし肝心のブランド名を提供したルイ・シボレーは、事業を立ち上げて間もない頃からクルマ作りでデュラントと対立を深め、ある日、デュラントがルイに、「安っぽい紙巻き煙草を吸う習慣をそろそろ変えてはどうか」と進言した些細なことから仲違いが深刻化。1915年に保有株をすべてをシボレーモーターカーに売却。これを契機に自動車ビジネスの一線から退くこととなった。

〜遺した功績だけが人生の価値ではない〜
●ただ元来ルイは、著名なレーシングドライバーとして米国内で高い名声を保ち続けていたことから、1916年以降もレースシーンでは華々しい活躍とリザルトを残しており、また新会社のフロンテモーターズコーポレーションの設立にも尽力した。が1929年の株式市場の暴落で保有蓄財の殆どを散財。終に1941年の6月6日、ミシガン州に於いてほぼ無一文のまま他界した。

●21世紀を迎えた今日。GMには欠かせないビックネームとなったシボレーは、スポーツカー、フルサイズピックアップトラック、セダン、そしてクーペといったスタイル別のモデルラインナップの充実にとどまらず、次世代EVに於いてもブランド価値を強く輝かせている。
そしてルイ・ジョセフ・シボレーは、インディアナ州の聖ヨセフ墓地に埋葬されており、彼の胸像はインディアナポリスモータースピードウェイ博物館の入り口に立ち、その偉功を今に伝えている。

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2011/09/17

未来がクルマを不幸にする

~夢破れたスズキとVWの包括提携~
●暮れも押し迫った2009年の12月。互いの協議を重ねた末、ようやく締結を果たしたスズキ・VWの包括提携劇だった。
しかしスズキは先の9月12日、同社取締役会を経た上で「VWとの業務提携並びに相互資本関係を解消する」との報道発表を行うこととなった。
またスズキは、資本関係の完全な解消を実現するため、VWが議決権総数ベースで、19.89%を保有するスズキ株の買い取りをも表明している。

●これを受けたVW側では、スズキの現行株価が、提携当時の買い取り価格を3割程下回っていること。また今後の交渉を有利に進めるためもあってか、「スズキの株式は今後も保持し続けたいし、将来の協力関係にも大いに関心がある」と語っている。
思えば、そもそもこの両社は、包括提携にあたって、スズキ側は「VWから環境技術の提供を望んでいた」し、一方でVW側はスズキを通して「アジア圏の新興国市場において、VWグループの影響力拡大」に期待を賭けていた。

~不可能となったメーカー間の棲み分け~
●しかし先頃、スズキが自社の新型モデルに、フィアット製ディーゼルエンジンの搭載を決めたことに対してVWは「VWグループ外からのエンジン調達は提携契約に違反する」と表明。
スズキの原山保人副社長は「VWはスズキへの影響力を拡大しようとしている」と述べ、常に大資本とは異なる道を選び続けてきたスズキにとって、VWとの長すぎるハネムーン期間の段階で、互いの思惑違いが大きく鮮明化してしまった

●一方、VWの本拠である欧州地域では、ダイムラーとルノーの提携拡大や、渦中のVWとポルシェ・ホールディングSEとの経営統合が破談
そしてVWによるプットオプション(設定時点の市場価格に関係なく特定価格で売る権利)並びにコールオプション(設定期日までに市場価格に関係なく特定価格で買う権利)の行使によるポルシェAGの買収話が持ち上がっている
もはや自動車メーカー相互の住み分けができなくなってきた欧州の自動車業界は、景気見通しの不透明感もあって投資顧問会社も巻き込んだビジネスゲームの様相があらわになっている。

~スズキが拘る自主独自路線の原点~
●そんな過酷な世界市場で、自動車メーカーとしての自主独立を求め続けているスズキの原点はどこにあるのか。
それは大工出身の豊田佐吉と並び賞される程の才を持つ鈴木道雄が、地場浜松の大工棟梁へ弟子入りした後に、機(はた)大工に転向して鈴木式織機を開発。明治42(1909)年に、静岡県浜名郡天神町村で「鈴木式織機製作所」を創業したのが皮切りだ。

●当時「サロン織機」と呼ばれていた鈴木式織機製作所の機織機は、豊田自動織機が大資本の紡績会社向けの白生地用機織機を開発・供給していた。
一方で道雄は、家内工場向けの先染用機織機として開発・提供していた。つまり鈴木式織機製作所は、強敵の豊田自動織機とはあえて直接対峙しない独自戦略を選んだのである。

~ナンバーワンではなくオンリーワン~
●その後、鈴木式織機製作所は、大正9(1920)年に鈴木式織機株式会社として資本金50万円で法人に。昭和24(1949)年には東京、大阪、名古屋各証券取引所に株式を上場。
そして世の中が軍事需要に傾倒していく戦前の段階で自動車の研究開発を着手。敗戦後は軍事工場からの転換企業が、文字通り手探りで次なる事業ステージを模索する中、2サイクル30ccのエンジン「アトム号」を試作した。

●これをベースに昭和27(1952)年に「自転車チェーンを直接駆動する構造」「ダブル・スプロケット・ホイルを備える」など、当時人気のホンダ赤カブ号には無かった独自機構を組み込んだ2サイクル36ccの自転車補助エンジン「パワーフリー号」を発表した。

~地場の技術者が育んだ個性と資質~
●昭和29(1954)年には、国産車初のFF車でラック・アンド・ピニオンのステアリングギアを持つ「スズライト」の開発に成功。同車のリリースを契機に今に至る軽自動車王国の礎を築いた。
翌昭和30(1955)年の試作3号でピックアップ、セダン、ライトバンと3種のボディも輩出。ただ販売開始当時は月産3~4台の生産規模しかなく、また1台生産するたびに10万円の赤字が発生したという。

●実績が必ずしも企業収益に直結しなかったこの時期、スズキを支えた企業経営陣は、地味で一生懸命さだけが取り柄の地場工業学校出身者たちであり、それ故に当時から官僚的な高級技術者たちが絶対多数を占めていた日産とは対照的な社風が形成されてきた。

~ひとりの拘り、地域の資質、モノづくりへの想い~
●しかしたとえ独自戦略を信じる経営陣や上司が命令したとしても、現場の技術者にモチベーションがなければ、持ち前の集中力も持続する訳がない。
特に多数のメーカーがひしめく自動車王国の日本において、大資本を追う立場のスズキは、開発コストの圧縮でも「極限」を求められる立場だ

●それでもスズキが世界に対して結果を残してきたのは、常に独自戦略を貫いてきた鈴木道雄の拘りが原点にある。それは浜松という土地が育んだ楽観的で愛すべき前向きの資質といってもいい。
モノ造り企業が根を下ろす地域の独自性。それは日本のどの地方にも存在する。また国というのは、そうした地方の集まりでもある。
そうした個性の違いを大切に想い、個々の自動車メーカーが受け継いできた「拘り」を知ってクルマを選ぶこと。いささか懐古趣味かも知れないのだが、そんな愉しみが、今後もできる限り永く続いて欲しいと思う。

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